選択的夫婦別姓のこと
政治の話はあまり好きではないのですが、少しだけ書いてみます。
まず、僕がこの問題についてのスタンスを書いておくと、子どもの姓の問題もあるので戸籍は同一にするのが良いと思うものの、
一方で、旧姓の利用をもっともっと拡大するのが良いと思ってます。免許証やパスポートなんかも含め、社会的には旧姓のままで(結婚する前となんら変わりなく)一切通せる環境が理想だと思います。
で、今回ブログを書こうと思った本題なんですけど、
選択的夫婦別姓を推進する立場の人がよく『この制度は選択肢を増やすだけなので、今まで通りが良い人は今までとなにも変わりません。だから反対する理由はないですよね?』という意味合いのことを言うのですが、これははっきり言って欺瞞ではないかと思っているんですよね。
欺瞞であり、悪手なので、この手の主張をしているうちは選択的夫婦別姓は先に進まないのではないかと危惧しています。
と言っても分かりにくいと思うので、ある高校の制服を例にしてみます。
その学校はそれまで規定の制服があり全員それを着ていましたが、ある日「明日から私服で通学しても良いことにします。勿論今まで通り制服が好きな人は制服で通学しても構いません。自由にします」と制度が変わりました。
で、ここで、もしクラスの自分以外の生徒が全員私服で登校してきたとしたら、幾ら自分が制服を着たいと思っていても着続けられるでしょうか、ということなんですよね。
「いやそんなの関係ない、自分が制服を着たいと思ったら制服を着るのだ」という人もいるでしょう。でも、一方で、その環境の中で自分一人だけが制服を着続けることは、とてもできないと感じる人もいるだろうと思います。
勿論、実際にやってみないと、どれだけの生徒が私服を選ぶかなんて分からないですけど、逆に言えば、それって蓋を開けてみるまで分からないものだとも思うんですね。
そもそも、今の制度だって、夫婦どちらかの姓にすることが定められているだけで、建前としては男女平等なんですよね。ただ、実質的に、殆どの夫婦が夫の姓を選んでいる、社会的に強制されていることがそもそもの発端じゃないですか。
選択的夫婦別姓になれば、確かにこの強制は改善されることになるでしょう。しかし、別の社会的強制が生まれる可能性がある。そして、それは、蓋を開けてみるまで分からない。
だから、『選択的夫婦別姓は選択肢を増やすだけ、今まで通りを望む人はなにも変わらない』というのは欺瞞だと僕は思っているんですよね。これは、卑怯な、騙し討ちのような話だと思います。
で、選択的夫婦別姓に反対、あるいは消極的な人って、はっきりとは分からなくてもこの種の欺瞞に薄々気付いている人もいるのではないかと思うんですね。
「話だけ聞いたら確かに問題なさそうだけど、でもなんか上手いこと言いくるめられてる気がする。どうなんだろう」と。
だから、本当にこの制度を進めたいのなら、そういった欺瞞をやめて、『選択的夫婦別姓になれば社会は変わります。でも、それは良い変化だと私は考えています。みんなで、この社会を良くする方向に向かってみませんか?』とストレートな主張をもっとしていくべきではないでしょうか。
世の中を真に変え得るのは、フェアで、真摯な態度だけだと僕は信じているので。
世界から猫が消えたならが合わなかったこと
昨日、「世界から猫が消えたなら」という映画を観たのですか、これがまあどうにも合わなくて、
“僕は何故この映画を好きじゃないんだろう”と考えてると自分の好みが見えてきて面白かったので少し書いてみます。
先に言っておくと映画及び原作をディスる意図は一切なく好みの差でしかないものを好みの差だと書くことに意味を感じて書いていること、
またネタバレの配慮は一切せず全開で書いてますのでその辺りはご理解下さい。
合わなかった点その1 : ルールが不明瞭
これが例えば「世にも奇妙な物語」だったら僕も素直に楽しめたと思うんですよ。
ただ、映画として考えるとなにか消えた時に影響の及ぶ範囲が作者の自由すぎて「よく分からん!」ってなるんですよね。共感するのが難しい。
作中ではまず最初に電話が消えますが、電話が消えることで現在だけではなく過去も改変されるのであれば、
そもそも電話がなければ文明が今の社会の形に発達したはずがないので、社会の仕組みもなにもかも、もっともっと変わったはずなんですよね。
そこでまずついていけなくなった。
“なにかが消えることで、それに付随して大事な人との関係も失ってしまう”というアイデアはとても面白いと思うのですが、
如何せんそれが電話では「そりゃ失う関係はいっぱいあるだろうよ…」と思ってしまう。話が当たり前すぎて共感が生まれないんですよ。
合わなかった点その2 : 当たり前すぎて共感できない
さっきも言いましたが、消えるものが重要すぎて「そりゃなくなったら困るよな…」という感情しか生まれないんですよね。
例えば最初に消えるものが、主人公が言った通りパセリだったら結構面白かったと思うんですよ。
「パセリぐらいなくたって困らないよ」と思ってたのに、それが巡り巡って昔の恋人とも出会わなかったことになってしまう。
それはとても意外だし、意外である故に共感が生まれる。心に残ると言い換えてもいい。
あとは、ラストもそうですよね。
“どんなものでもなくなるとそれまでの世界とは変わってしまう。だから僕もいなくなるとそれまでとは世界が変わるはずだ”という結論は当たり前すぎるんですよ。捻りがなさすぎて心に残らない。
同じ物語から逆の結論(自分が死んでも世界は変わらない、でもそれでもいいんだ的な)も導けた筈だし、そちらの方が僕としてはずっと心に残ったと思う。
電話とか映画とか時計のようになかったら色々困ることが容易に想像できるものが消えて、
「失って初めて大切さが分かった」と言われても“いやいやいや…”ってなっちゃうんですよね。
それこそパセリだったら、この辺りも上手く効いたかもしれない。失って初めてパセリの大事さが分かったと言われたら「そうかも…」ってなる気がする。
合わなかった点その3 : 世界に入り込む隙がない
さっきからずっと“当たり前すぎて共感できない”って言ってるんですけど、そもそも作品世界そのものが作者の好みが強すぎて入り込めないんですよね。
自らが働く映画館の上に住む昔の恋人、自分好みの映画を貸してくれる友人、出てくる映画のラインナップも『いかにも』なものばかりで、
“ボクのセンスを見て!”っていう独りよがり感があるというか、観ている人が作品世界に入り込む余地を与えないんですよね(お前はお断りだって話かもしれない)。
また、恋人も、友人も、家族でさえ『主人公との関わり』としてしか作品世界の中で生存を許されてない点も気になった。主人公になにかを与えてくれるだけの存在。彼らが生きているという感触がない。自分にとって都合のよい世界に住む都合のよい人たち。
死を目前にした主人公が自分のことしか考えられなくなるのは当然としても、そのことを指摘するような人が出てこないので物語が歪んだまま進んでしまって、どうにも違和感が残ってしまう。
尤も、この辺りはセカイ系の特徴でもあるし、それがいいんだ!って物語も沢山あるので、
僕が出だしで躓いたせいで難癖をつけてるところはある。
以上、長々と書いてみました。好きな人いらっしゃったらごめんなさい。テーマとしては好きだし、佐藤健も宮﨑あおいは勿論、なんといっても濱田岳がとても良かった。音楽も映像も良かったし、好きな人はとても好きだろうと思います。ただ僕には合わなかったという話です。
結婚のこと
結婚したら凄く楽しいので皆したらいいと思う。以上。
いや、言いたいことは本当にそれだけなんですけど、折角なので自意識を完全に拗らせて少し書いてみたいと思います。
結婚は何故楽しいのかについて。或いは結婚して僕が得たものについて。
ああ、先に言っておきますが、僕の妻の話は殆どしません。飽くまで僕自身の、長くて退屈な話です。
さて、そもそも結婚ってなんなのでしょうか。といっても、なにも難しい話をしたい訳ではありません。ただ、「結婚」と言ってもいくつかの側面があるので、一言で言えば何だと思いますか?という話です。
結婚する前は、僕は「好きな人と一緒に暮らすこと」だと思ってました。でも今は少し違います。
今は結婚とは「好きな人と“家族”になること」だと思ってます。この“家族”というのが重要で、僕ははっきり言って結婚する前はこのことをすっかり失念してたんですね。もっと言えば、家族という概念をよく分かっていなかった。
結婚して妻と一緒に暮らす中で、僕は初めて家族の温もりというものを知りました。家族とは温かいものだって、知識として知ってはいました。でもそれを自分が実感したことはなかった。
というより、自分がその温もりを知らないことを知らなかったんです。元から持っていないものは、自分が持っていないことにすら気付けない。
とまあここで僕が生まれ育った家族の話になるんですけど、例えば僕と両親の関係が良くないとか恨んでるとかそういう訳では特にありません。
両親は共働きだったので家でひとりで過ごす時間は多かったけれど、別に暴力を振るわれたこともないし食べるものに困ったこともない。習い事だってさせてもらった。嫌な言い方かもしれないけど、ごく普通の家に育ったと思います。
ただ、なんというか、僕が家族の誰とも気が合わなかったんですよね。物心付いた時から、ずっと。気が合わないから話もしない、ご飯もひとりで食べる時も多く、食べたらすぐに部屋に戻る。
これは本当に、両親が悪い訳でも僕が悪い訳でも恐らくなくて、ただただ“気が合わなかった”としか言いようのないことだと思います。
なので、結婚しても別々の部屋でお互い好きなことして過ごすのかなくらいに思ってたんですね。
じゃあですよ。まさかこの僕が「ひとりでご飯を食べても美味しくない」って思う日が来るなんて。別に一緒になにかする訳ではなくても同じ部屋にいて、話し掛けたら返事があるということがこんなにも人の心を安らかにするなんて。
これが家族で、結婚とは家庭を築くものだと僕は結婚して初めて気付いたんですね。で、今胸に流れている感情が“愛”だとも僕はその時に知った。
僕は愛を知らないまま(そして自分が愛を知らないことを知らないまま)育ってしまったけれど、そんな自分でも愛を手にすることが出来た。
なので、ここで冒頭の言葉が来るんです。多分世の中には、様々な事情で家族というものにポジティブな感情を持てなかったり、僕のように家族というものがよく分からない人がきっといると思うんです。僕は僕が特別だとは思えないから。
だからこそ、そういう人に向けて、凄く上から目線で傲慢で優越感に浸りきった言葉であることは承知の上で最初の言葉を言いたかったんです。
『結婚したら凄く楽しいので皆したらいいと思う』と。
それは、なにかを取り戻すものになると思うから。
スマートフォンゲームのこと
あっさりと一ヶ月更新が空きましたが特に書くこともないので今やっているスマートフォンのゲームの話をします。本当にしたいからするだけなので読まなくて良いと思います。
ここ最近、一番熱心にやっているのが「グランブルーファンタジー」というゲームです。所謂RPGです。
幾つか試してみた中で、水彩画っぽい絵柄が気に入ったのと、武器強化のバランスの絶妙さに惹かれてそのままズルズルとやっております。ストーリーも普通に好きです。
スフィンくんです。
ゲーム内に騎空団というギルドのようなものがあるのですが、当然無言団に所属してるのでゲーム内でも無言です。
昨年末あたりにうっかりティターンを引いてしまい半額中にバアル入りまくってそこそこ形になってきたあたりで今度はうっかりハデスを引いてしまったので、コルタナ集めつつケル銃の復刻を待つか…という感じですね(なんの話?)
十天の解放はもう少し様子を見つつ年内に1人はしたいなあ(シエテ、エッセル、ソーン、ニオが居る)(でもオクトーかサラーサも欲しい)(いやだからなんの話?)。
もうひとつやっているのが同じサイゲのシャドウバースというゲームで、これはカードゲームですね。
遊戯王とかに少し興味はあったんですが、なにせ友達がいないので一緒にやる相手もなく(見ず知らずの人とやるようなコミュ力も勿論なく)、なのでシャドバは新鮮な気持ちで楽しんでるのですが、そもそも遊戯王とかと通じるものがあるのかもよく知らない…。
ランクA帯は疾走ビショップで駆け抜けたのですが、AAに来てから笑っちゃうくらい、本当にもう笑っちゃうくらい勝てなくなってしまったので、最近はロイヤル使ってます。頭が悪いのでエルフを使いこなせない…。
と、まあ本当にゲームの話だけのブログでした。友達がいないので話す相手がおらず、ブログになんとなく書いてしまうというオタクあるあるなやつです。
グラブルの方は時々乃木坂にちなんだ名前を付けてる人を見かけますね…何処まで流行ってるのかはよく知らないけど。
Twitterと攻略wikiのこと
以前、ゲームを遊ぶ時になるべく効率的に進めたくて、攻略サイトで一つひとつ確認しながらプレイしていた時期がある。
アイテムを取り逃がしたくないし、ショップでどの武器を買うべきか、どのジョブを育てたらいいのかを全て知りたくて最後まで攻略wikiに首っ引きだった。
でも今は、クリアするまでは攻略サイトを見ないようにしている。詰まった部分だけピンポイントで調べたりはするけれど、知るのは最低限だけにして、なるべく余計な情報を入れずにゲームを楽しみたいと思っている。
どうしても調べる過程でネタバレは避けられないし、製作者の意図とは違う形で展開を知ってしまうと少し醒めてしまう時があるから。
それと少し似たような話で、以前は乃木坂の情報を仕入れるのにTwitterをフル活用していた。多少フライング気味のものを含めて、細かな情報を全てTwitterで得ていて、
あの頃は情報の見落としは殆どなかったと思うし、乃木坂の現在の状況をきちんと把握しているという自負の元で僕自身も色んな呟きをしていた。
だけど今は、正直なところTwitterはあまり見なくなった。
結婚してスマホを見る時間が減ったってのもあるけれど、恐らく一番大きいのは「〜〜ちゃん出演おめでとー」だとか「〜〜ちゃんやっぱり凄いね」といった誰かの感情付きの情報に晒されて、その事実に対して自分の素朴な感想がよく分からなくなってしまったからだと思う。一言でいえば疲れてしまった。
その状態は先の展開を攻略サイトで知った上でゲームを遊ぶようなもので、確かに効率的で情報の抜けはないけれど、乃木坂の活躍の場が増していくにつれて、いつしか情報に追い立てられている気分になっていた。
確かに今は沢山のものを見落としているかもしれない。
だけど、テレビを何気なく見てたら急に乃木坂ちゃん出てきたりとか、書店の雑誌の表紙が乃木坂や欅坂だった時に新鮮な驚きを感じる方がどうも僕には合っているように思う。
それに、ななみんではないけれど、「必要なものには必要なタイミングで出会っている」ということを僕も本気で信じていたりするのだ。
これは本当に、なにかや誰かを批判したい訳ではなく僕にとってはそうでしたというだけの話で、人によってこの辺りの感覚は恐らく異なるのだろう。
当面はこのまま細々とマイペースに応援していけたらと思っている。…今の状態で乃木坂に関してなにか有意義な呟きができるかどうかは、よく分からないけれど。
フジファブリックのこと
すごく応援していた人が突然いなくなってしまったことが僕にはある。この人の作る音楽をずっと聴いていたいと心の底から惚れ込んだ人が、ある日空へと旅立ってしまった。
フジファブリックの話です。
志村正彦のいない新体制になって初めて発表された「STAR」は志村の“不在”という名の存在感を色濃く感じた。
CDを聴いていても「この曲を志村が歌ったらどんな感じだろう」とつい考えてしまったり、ライブに行っても言葉は悪いが「まるで豪華なカラオケだな」と思ってしまったこともあった。
でも、そういったネガティブな感想は次の「VOYAGER」というアルバムで払拭された。いや、もっと言えば「VOYAGER」の最後に収録された「Light Flight」という曲によって。
「Light Flight」の歌詞を見ると、
「悲しい歌 消えないから 耳を塞いで歩きだした」という冒頭の歌詞と、
最後の「遠い日のメロディ 悲しいだけしゃないから 夜空に散りばめ 輝かせてみるよ」との対比が印象的で、
この間にある色んな葛藤や覚悟がまっすぐ伝わるというか、聴くたびに本当にグッときてしまう。今これを書いているだけで涙ぐんでしまうほど。
多分、これだけなんだと思う。フジファブリックが続いているのは。志村のことを、志村の作った音楽を無に帰したくないという。
それが、どんな批判をも飲み込んで3人が前を向く気持ちだと思うし、沢山の人が彼らを応援したくなる理由でもある。
それまでにも「ああ、これは志村のことを歌ってるんだな」と直感させる曲は幾つかあったけれど、「Light Flight」以降はほとんど見られないし、本当にこの曲はそういった気持ちの集大成なんだろう。
この「Light Flight」を境に変化したことは幾つかある。例えば「STAR」と「VOYAGER」までは含まれていた志村正彦の名前がメンバーから消えたり、
それと相反するように、ライブのMCやインタビューでそれまで頑なに触れなかった志村の話題が少し出るようになったり。
それは志村の不在という存在が消え、彼の死に正しく向き合えた結果なんだと思う。
消えない悲しみに対して、「悲しい記憶だけじゃない」と優しく笑うこと、
これだけが悲しみを唯一乗り越えられる強さで、フジファブリックは現在進行形でそれを体現しつづけている。
もし志村が今も生きていたらどんな音楽を奏でていただろうかと考えると今でも狂おしい気持ちになったりするけれど、それは誰にも分からないことだし、
今のフジファブリックもすごくすごく最高なバンドなので、ずっとずっと応援していきたいと思う、というお話。
はてなブログを始めたのこと
はい、という訳ではてなブログ始めてみました。
実はTwitter始めるまでは、はてなダイアリーをやってた時期もあったりするのですが、今回は心機一転新たにブログを作ってみました。
色々な理由でTwitterでは書きにくいと僕が感じてものをなんとなく書いていけたらと思ってます。
Twitterで書きにくいというのはどういうことかというと、
まずTwitterではなるべく口語体で書くことに決めていたのでそれ以外の書き方がしたくなったというのがひとつ、
あとひとつは文字数の問題があって、これはひとつのパラグラフを140字にまとめるのが困難というよりも、
1つの話題について複数のパラグラフで語ることが少し難しく感じられたってのがあります。
始まりと終わりがはっきりしてるブログのほうが向いてるのかなーと。
更にひとつ、これは本当に感覚的な話なのですが、
Twitterで呟く時は、ひとつの大きな流れに自分の言葉も乗せるような感覚があって、前後の脈絡とか関係なく思ったことをただ言いたいみたいな時に少しやりにくさがあったんですよね。必要以上に「読まれてる」意識が強くなりすぎてしまうというか。
その点ブログだと、完全に自分の庭という感覚で好きなことを話せそうだから、というのがあります。
まあ、ここまで読んで頂いたらなんとなく分かるかもしれませんが、普段から割とこの手の自問自答を1人でする癖があって、単にそういうのを載せる場所が欲しかっただけだったりします。
そして急に面倒くさくなってきたので、今日はここまでで。えっとこれ投稿するのどうすればいいんやろ…。まあいいや適当にやるか。
と、こんな感じでゆるゆると適当に書いていきたいと思いますので、なんとなくよろしくお願いします。では。